日本中世禅宗寺院の景観とその意味――― 夢窓疎石の修造知識に関する研究

野村 俊一(のむら しゅんいち) さん

東北大学大学院 工学研究科 都市・建築学専攻 助教(2010年7月~)

1)はじめに

 本研究のおもな目的は、禅院の景観にかんする禅僧の知識体系について、日本の中世を代表する禅僧――夢窓疎石(1275~1351)の事例を中心に解明することにあった。本研究の大きな特徴は、景観を制作することの意味と、受容することの意味というふたつの側面に着目し、仏教教理や社会背景をふまえながら、造営に関わった人物とその世界観を多角的、包括的に検討したことである。
 鎌倉期に興隆した禅院の景観は、のちに書院造や会所、枯山水や池泉など、日本の伝統的な都市建築に多大なインパクトを与えてきた。この景観について、建築史学では五山派叢林の伽藍と塔頭の規模をはじめ、禅宗様の構法や意匠、造営組織などの検討がすすめられてきた。しかしいっぽうで、景観の具体的な使われ方や行事の様子、各建築の存在意義など、景観にみる様々な意味の検討は立ち遅れている状況にあった。さらにこの意味が、具体的にどのような過程で中国から将来され、日本に定着していったのかということについては、一部で検討が加えられているとはいえ、まだ解明の余地が多く残っていたのである。


2)研究の成果・ポイント

 この検討で利用したおもな史料として、つぎの二つが挙げられる。ひとつは、仏教の教理をあらわした詩文――「偈頌(げじゅ)」であり、もうひとつは、禅院の集団生活を律するルール・ブック――「清規(しんぎ)」である。
 前者は、禅僧が景観を詠んだものも存在し、景観の様相にとどまらず、詩会の場やその社会的・政治的意味までもうかがえる貴重な史料である。例えば、鎌倉瑞泉寺をめぐって詠まれた詩文集――『遍界一覧亭記』は、偈頌の韻が揃えられていないことや、実際に現場へ訪れていない者の偈頌をも今に伝えている。一同に詩会を開催しなかったケースや、実景を観ないで想像的に偈頌を詠んだケースもあったのだ。景観を受容する枠組みが、さまざまに存在したのである。
 そして後者は、建築の行事とその空間にくわえ、各々の宗教的意味を知ることができる貴重な史料である。例えば仏殿は、唐代の中国では住持が仏の代理として存在したために必要とされなかったが、後世になると、檀越のための追善供養など対外的な行事をする場として、しばしば清規に明文化されるようになる。「覚他」のため、すなわち、禅僧からみた他者を覚すため制作されるようになったのだ。


3)今後の展望

 このように、禅院の景観をめぐる仏教徒や施主の知識体系、その社会背景の一端を明らかにしてきた。しかし、解明すべき事象はまだ多くのこっている。建築史学において、建築や庭園の意味に関する研究は決して十分とは言えないのである。東アジア建築史を包括する視座のもと、今後もさまざまな景観や都市の意味をあぶり出してゆきたい。