初期録音と楽譜に残された「前奏(Preluding)」の分析:19世紀の演奏慣習における前奏演奏の役割

鷲野 彰子(わしの あきこ) さん

福岡県立大学 人間社会学部 准教授

【研究概要・成果・今後の研究の展望】

 本研究は、19世紀の演奏慣習、なかでも当時の演奏会においてピアノの演奏が披露される際に、即興的に演奏された前奏演奏の実態や役割を明らかにすることを目的に行った。その際、実際の演奏がどのようなものであったかを解明することに重点を置くことにした。この研究においては音源資料としてまとまった情報が希薄なことから、①音源資料を収集してまとめること、そして②それら音源資料をどのように楽譜資料や文献資料と関連づけて実態を明らかにするか、という資料収集と研究手法確立の2点に焦点化させて、本研究を進めることとした。

 資料収集においては、録音物の存在する19世紀末から20世紀前半までの約半世紀分のピアノ演奏の録音資料から前奏演奏を探すと共に、それが記譜された楽譜資料、そしてそれらについて記載された文献の収集を行った。

 前奏演奏の含まれる録音資料は、かなり多くの資料を調査したにも関わらず、その数はかなり限定的なものであった。おそらく即興の前奏演奏という特性のためであろうが、前奏演奏の録音のほとんどが、スタジオ録音の演奏ではなく、演奏会やブロードキャストにおけるライブ録音にのみ含まれた。そのなかでも、特筆すべきはヨゼフ・ホフマン(Josef Hofmann,1876-1957)によるライブ演奏の録音資料である。20世紀前半の録音では、ライブ演奏のような長時間の録音はほとんどなく、1937年の彼のアメリカ・デビュー50周年記念演奏会の録音が存在すること自体がかなり特殊なケースといえる。また、当時を回顧した20世紀半ばの文献や録音されたインタビュー資料の中に、「ホフマンはなぜ前奏演奏をするのか」といった言及があることから、彼と同時代の演奏家らは既にこうした演奏は行っていなかったことがうかがえる。それゆえ、彼のライブ録音の存在は、前奏演奏を検討するうえで非常に貴重な存在といえる。ホフマンはこの演奏会の中で多くの前奏演奏を挿入しているが、それらは数小節程度の長さをもつものもあれば、和音ひとつ鳴らしてその音が減衰するのを待つだけのものもある。

 彼の前奏演奏の録音資料は非常に示唆に富んでおり、ここから、楽譜資料の演奏方法を再考することもできるのではないか、と考えられる。ここに記録された彼の前奏演奏は、例えばショパンやフンメルの「前奏曲」よりも、むしろ楽曲冒頭の序奏部分に類するものであったり、あるいはチェルニーが『ピアノ演奏の基礎』で2つの和音のみ示して、それを「最も短い演奏」だと述べているものを体現したような種類のものである。見方を変えれば、ホフマンの音源が、チェルニーらの教本に示された譜例(例えば[5度→1度]という2つの和音の譜例)の意図を具現化するツールとなり、また楽曲の序奏(例えばショパン《幻想即興曲》冒頭の1音)がどのような意味合いで記譜されたのかを現代の私たちが理解するための手がかりとなり得ることを示唆している、といえる。

 今回の研究で得られた成果としては、前奏演奏が記録された録音資料を集約できたこと、そしてそれらを分析し、同じ様式の演奏が記譜された楽譜(つまり楽曲の序奏部分や19世紀の教本に示された譜例)を関連付けて検討する手立てが得られた点が挙げられる。今回の調査で、前奏演奏の録音の数は相当に限定的であることがわかったが、今後、こうした前奏演奏と同種の内容をもつ、楽譜に記譜された部分(楽曲の序奏部分等)と初期録音を照らし合わせることで解明できる部分も多くあることが期待されることから、引き続き、調査や分析を進めたいと考えている。