初期近代西欧の建築空間における知識表象と記憶術の応用の問題について

桑木野 幸司(くわきの こうじ) さん

Kunsthistorisches Institut in Florenz研究生(=受賞決定時)、大阪大学・大学院文学研究科准教授(=2011年4月以降)

研究の背景

 初期近代の西欧は、新大陸の発見や自然科学の進展、交易の拡大などによって、物と情報が未曾有の規模であふれかえった時代でした。そうした中、情報を効率的に整理し、創造的なデータベースを構築するための、さまざまな知的方法論が洗練されてゆきました。そうした方法論の一つである「記憶術」は、近年欧米の人文学で高い注目を集めています。今回の受賞対象となりました研究(『地中海学研究』、2009年、pp. 3-28)は、その記憶術に着目し、文字とイメージと空間という三要素が、いかに創造的な仕方で協同することが可能であったのかを、十六世紀の庭園論を素材に分析しました。


研究の成果・ポイント

 十六世紀末のフィレンツェで活躍した修道士アゴスティーノ・デル・リッチョ(1541-98)は、博物学に関する著作を多数執筆するかたわら、『場景記憶術』(1595)という記憶術教則本も残しています。その彼が『経験農業論』(1595-98)で展開した造園論では、王侯のための理想庭園が描写されます。園内の森には、多数の人工洞窟が等間隔に設置され、内部には、五感を刺激する様々な仕掛けや、百科全書的な装飾イメージが描かれます。本研究では、これらの空間構成法や描画法の多くが、デル・リッチョ『場景記憶術』中の記憶教則と一致することをつきとめ、彼の理想庭園が記憶術を応用した空間であった可能性を指摘しました。
 この仮定のもと、ではその記憶術的空間において、どのような情報を、何のために、どうやって表象・整理していたのかを、人工洞窟の装飾の分析を通じて明らかにしようと試みました。その結果として、彼の理想庭園は一種の視覚教育装置として機能していたこと、そして人々に効率よく厖大な情報を習得させるために、インプレーザ文学を応用した情報の圧縮や、修辞学のトポスの概念に基づくデータの主題分類といった知的方法論が、創造的な仕方で用いられていることを明らかにしました。
 主題別の知識分類と、イメージによる情報の圧縮に、さらに建築空間がもつ諸特性を効果的に組み合わせたデル・リッチョの理想園は、当時の庭園が、厖大な知識を編集するための装置としても機能しえたことを示しています。また同時に、当時の知識人たちの情報整理の方法を間接的な仕方で垣間見させてくれる、非常に興味深い事例ともいえます。


今後の展望

 本研究で得た視座をもとに、庭園以外の建築空間へと分析を拡大すると同時に、デル・リッチョのその他の未刊行手稿も分析し、彼の抱いていた庭園観を当時の芸術・建築文化の中に位置づける作業を行いたいと思います。