ポン=タヴェンの文化政策――― ゴーガンの受容史と美術館創設

小泉 順也(こいずみ まさや) さん

東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」特任研究員 法政大学、日本女子大学、國學院大學、実践女子大学非常勤講師

はじめに

 芸術家は時として命を削りながら創作に打ち込むことがありますが、実際には死んでからも、歴史という新たな相手と格闘しなければなりません。作品の劣化や破壊行為といった物理的な要因のみならず、忘却や価値観の変容といった別の障壁を乗り越えなければ、記憶は継承されていかないからです。しかしながら、作品が残っているだけでは不十分であり、近代以降はやはり、美術史の記述や美術館といった制度的な枠組みと結びつくことが必須の条件であると言えるでしょう。


研究の成果・ポイント

 これまで美術批評やコレクションといった芸術社会学的な視点、あるいはオマージュを捧げた絵画作品の分析などを通して、ゴーガン(1848-1903)の没後をめぐる幾つかの問題を検証してきました(「ゴーガン没後の顕彰のゆくえ-ピエール・ジリウー《ゴーガンへのオマージュ》をめぐって」、『美術史』、167号 / 「シャルル・シャッセの美術批評研究」、『比較文学』、51号 / 「ポン=タヴェンをめぐる記憶の場の創出」、『レゾナンス』、6号)。
 具体的に述べるならば、南仏出身のジリウーを含めた次世代の一群の画家たちは、ゴーガンの影響を作品のなかに明示することで、その系譜のなかに自らを位置づけようと試みました。あるいは批評家のシャッセは、タヒチ時代に先立つブルターニュ時代が等閑に付されていることを憂慮して、この分野の研究に先鞭をつけたのです。
 その一方で、例えば、教会建築や磔刑像を扱った大著『ブルターニュ美術』を1933年に上梓したアンリ・ヴァケという郷土史家は、その序文のなかで、「ブルターニュには絵画の革新などなかった」と断言しています。これはゴーガンやポン=タヴェンの画家たちが同地方の出身ではないと述べているに他なりません。つまり、地方史のレベルでは、これらの芸術家たちは長らく他者として扱われてきたのです。


今後の展望

 しかしながら、現在では状況は大きく変わりました。いたるところに作品のモティーフを配した土産物が並び、ゴーガンはいわば観光資源として活用されています。こうした変化を象徴する出来事が1985年のポン=タヴェン美術館の創設でした。地域振興や地方分権の動向も見据えつつ、設立に至るまでの歴史的経緯とその後の活動を分析することで、フランス近代美術における中心と周縁の関係を再考したいと思っています。


ポン=タヴェンの市庁舎広場に1985年に設置されたゴーガンの石像 
(銅像は似つかわしくないという判断が働いたのかもしれません)