15世紀フィレンツェの素描文化―マーゾ・フィニグエッラ素描群分析に基づいて―

伊藤 拓真(いとう たくま) さん

東京大学人文社会系研究科 基礎文化研究専攻 美術史学専門分野 博士課程

研究の背景

 ルネサンス期のフィレンツェでは、レオン・バッティスタ・アルベルティの『絵画論』などにみられるように、素描に関する理論が発達しました。今回受賞の対象となった研究は、このような理論的展開と実際の素描制作の関係がどのようなものであったかを考察したものです。この目的のために、15世紀フィレンツェの金工細工師マーゾ・フィニグエッラ(1426-64)の素描群を分析の出発点にしました。


研究の成果・ポイント

 現在、マーゾの素描はウフィツィ美術館やルーヴル美術館をはじめとするイタリア内外のコレクションに分蔵され、その数は162葉にのぼります。これは、15世紀半ばのフィレンツェの芸術家によって残された素描群のなかでは最大級のものです。また質的にもペンを主体とした描写の完成度は高く、第一級の作品群といえるでしょう。これらの素描群の調査に基づき、本研究では次の二つの段階にわたる分析を行いました。
 第一に、マーゾの素描のうち、動物や人物を描いたものを取り上げて、そこで用いられている技法や制作手順を確認しました。この内容を、チェンニーノ・チェンニーニの『絵画術の書』(1400年前後)における記述と比較し、両者に多くの共通点が見られることを指摘しました。
 第二に、フィレンツェ大聖堂ミサ聖具室を装飾するための、木工象嵌細工の制作におけるマーゾの素描家としての役割を考察しました。この作品の制作全体を統括したのは木工師ジュリアーノ・ダ・マイアーノでしたが、準備素描の一部がマーゾに依頼されました。この素描自体は現在は失われていますが、関連する古文書などから、マーゾがどのような素描を提供したのか推測することが可能です。そこから導き出される下絵制作の実態を、同時代の素描理論の内容と比較し、両者が一致することを確認しました。
 以上の分析から、マーゾの素描はチェンニーニ以降のフィレンツェの伝統に位置づけられるものであると同時に、アルベルティなどによって唱えられた新しい素描理論も反映していることが判明しました。従来別々に論じられることが多かった作品制作と理論を関連付けて考察した点が、この研究の特色です。研究の成果は、論文として『地中海学研究』に第30号(2007年)に掲載されました。


今後の展望

 15世紀に執筆された美術理論書・技法書の一部は、後の時代の著述家・芸術家にもしばしば参照されました。初期ルネサンスにおいて発達した素描理論が、続く時代の理論・実制作にどのような影響を与えたかを今後の研究の対象としていきたいと思います。