J.S.バッハのケーテン時代までの定旋律をもたない器楽曲にみられる対位法的技法の発展

村田 圭代(むらた かよ) さん

東京藝術大学大学院 音楽研究科 博士後期課程五年

研究要旨・成果

 本研究は、J.S. バッハ Johann Sebastian Bach (1685~1750)の定旋律をもたない 器楽曲にみられる、初期から約二十年にわたる作曲技法の発展を、対位法的観点から跡付けるものである。

背景と着眼点、対象、方法

 西洋音楽史記述においてバッハの名は、フーガやカノンと結びついている。バッハの死から二十五年ののち、次男エマヌエル Carl Philipp Emanuel Bach(1714~1788)は次のように報告した。
「自分自身で熟考するということのみが、彼[バッハ]を既に青少年期において真に優れたフーガの専門家とならしめた」。

 フーガにおける重要な技法の一つは転回である。転回とは複数の旋律を、その上下関係を入れ替えつつ同時に扱うことを指す(図1割愛)。定説によれば、バッハは既に初期に秘技的な理論(北ドイツの学術的対位法)をとおし、転回に習熟した。

 筆者は、転回を単に複数の旋律の上下関係の交換とみなすのではなく、転回される各旋律がどのように作られ、扱われるのか、との点に着眼した。(まず)バッハが教育目的の範例的曲集をまとめるまでの過程を跡付けるべく、ケーテン時代までの定旋律をもたない器楽曲を分析し、学術的対位法やバッハの声楽曲に関する筆者のこれまでの研究成果と比較した。

 筆者は転回のなかでも完全五度の問題(図2割愛)に取り組んでいる。同時に扱われる複数の旋律のうちいずれかの旋律間に完全五度がみられれば、それらの旋律の転回後には完全四度が生じる。この完全四度は最低声部との間にもたらされた場合に不適切となる。不適切な完全四度がどのように避けられるかを、本研究においても検証した。

結果と考察

1) 転回される旋律の作りかたと、それらおよびそのほかの旋律の声部配置との間には関連がみられる。

 二つの旋律を同時に扱う場合、初期のものと推定されてきたフーガでは各拍において、転回される 旋律のみで和音構成音のうちの三つを含むことが多い。そのいずれかが最低声部におかれ、その際 声部数が一時的に減少することもある。これらは、通奏低音に基づくフーガの即興演奏の実践に由来しよう(手の中での和音の分解、低音としての主題、転回時のテクスチュアの薄さ)。

 ヴァイマル時代以降のものと推定されてきたフーガではたいてい、転回される旋律は、各拍において和音構成音のうちの二つのみを含み、各声部に均等に配される。限定的な音の動きが和音選択の可能性の広がりをもたらしたためであろう。声楽曲でも似た手法がもちいられていることから、背景には声楽曲の創作や古様式への取り組みがあったと解しうる。

2) バッハは不適切な完全四度を生じぬような三つの旋律の作りかたを(北ドイツではなく)イタリ アの楽曲から取り入れた可能性が高い。また、この手法は定旋律をもたない器楽曲ではしばしばもちいられるが、声楽曲にはほとんどみられない。

 三つの旋律を同時に扱う場合、学術的対位法では二つの旋律に三度や六度を重複し、その旋律の五度移高によって完全な転回を実現する。しかしこの「秘技」を初期のバッハは、声楽曲と器楽曲の双方においてもちいなかった。移高をおこなえば、同音の重複によって響きが空虚となるためであろう。

 バッハは声楽曲では不適切な完全四度を避けるために、旋律のかたちを変えたり、入りをずらしたり、通奏低音声部に別の音をおいたり、あるいは、旋律を転回しないこともあった。一部の器楽曲には加えて、七の和音や減三和音を織り交ぜたり、ある音に対し順次上下三度の音を充てたりすることで不適切な 完全四度を生じぬような旋律の作りかたがみられる。この手法は、バッハの初期にかかわりの深い 《メラー手稿die Möllersche Handschrift》におさめられたイタリアの楽曲や、ヴァイマル時代に懇意な間柄にあったヴァルターJohann Gottfried Walther (1684~1748)の『作曲教程Praecepta der musicalischen Composition』(1708)と共通する。

 ここからはまた、バッハの転回の捉えかたが声楽曲と器楽曲では異なっていたことも示唆されよう。声楽曲においては通奏低音声部の存在が前提となるゆえ、完全五度の問題への考慮無しに旋律を作っていた可能性さえ浮かび上がる。

総括

初演日を(おおよそ)推定可能な声楽曲に加えて器楽曲をも対象とすることで、バッハの対位法的技法の発展の道筋がよりつまびらかとなった。引き続き転回の手法の変遷を跡付け、「フーガの専門家」としてのバッハのよりふさわしい理解に迫りたい。