ベートーヴェンの弦楽四重奏曲Op.59.19世紀初頭のヴィーンにおける弦楽四重奏曲との関連:作曲とその意義

丸山 瑤子(まるやま ようこ) さん

慶應義塾大学大学院 文学研究科 美学美術史専攻後期博士課程、ヴィーン大学哲学科博士論文研究分野音楽学

研究概要・成果・評価等

 ベートーヴェンのOp.59は前作Op.18からの著しい様式変化を示し、従来シンフォニック、管弦楽的四重奏曲と評されてきた。先行研究はこの変化をヴィーン音楽界の変化から説明してきた。即ちOp.59作曲の前、I .シュパンツィヒがヴィーン初の弦楽四重奏中心の公開演奏会シリーズを始めた。その結果、従来私的空間でアマチュアに楽しまれていた弦楽四重奏が、公の場で職業演奏家に演奏されるようになった。Op.59はこの新しい演奏会を想定に書かれたため、公の場に見合う新しい様式を備えたというのが従来の通説であった。しかし従来説は①Op.18とOp.59の比較分析の欠如、②同じく社会的変化に晒された同時代作曲家の作品考察の欠如、という点に問題があった。

 本研究は以上の問題をA.創作背景の調査とB.音楽分析によって解決し、ベートーヴェンの弦楽四重奏様式の意義を同時代の状況において捉え直す試みである。助成期間中の主要研究成果を次に記す。

A.創作背景調査では、①室内楽の演奏頻度、②演奏会曲目、③演奏者に注目してヴィーンの公開演奏会における室内楽演奏の在り方をシュパンツィヒの四重奏シリーズの開始前後で比較した。そこから次の点が確認された。

  • 弦楽四重奏の公開演奏自体は四重奏シリーズ以前から存在したが、独奏曲を除く小編成作品が公開演奏会にあがるのは不定期であった。
  • 独奏曲を除く室内楽のみの公開演奏会記録はほぼ皆無である。
  • 従来、四重奏の演奏者は専らアマチュアまたはアマチュアとプロの混成であり、公開演奏のための固定した四重奏団の存在は確認できない。
    以上と比べ、シュパンツィヒの事業の革新性は次の点に要約される。
  • 弦楽四重奏を主とする室内楽中心の曲目構成
  • 管弦楽中心の演奏会と同様の予約券販売方法に基づく室内楽の定期的な演奏機会の確立
  • 公の場における職業演奏家のみ、かつ団員の固定した四重奏団の組織
    ここからシュパンツィヒは公の場において四重奏を管弦楽と同列に位置づけようとしたと推察される。

B.音楽分析では、ベートーヴェンと同時代作品との比較分析を行い、以下の結果を得た。第一に、複数の音楽要素にわたり、ベートーヴェンほど明確な様式変化を示す作曲家は見つからないが、各要素を個別に見ると同時代作曲家にもベートーヴェンの様式変化と通じる点が確認された。具体例を次に示す。

  • 作品規模、使用音域の拡大:ベートーヴェンのOp.59に顕著な長大な楽章の規模や使用音域の拡大は、Op.18にはないシンフォニックな特徴に数え入れられる。しかし同時代作曲家の作品には、Op.59と同等またはこれを凌駕する先例が存在した。
  • 模倣書法:Op.59では、3声以上の模倣に際し模倣声部の入りが音高の高低順になる傾向がOp.18より高い。模倣声部を音高順にする手法自体は当時の慣習的手法であるため、使用頻度の増加自体はベートーヴェン個人の問題と見做せる。しかし模倣が位置する音楽的コンテクストには一部の作曲家にベートーヴェンと類似の傾向が見られ、中には模倣声部の扱い以外にもベートーヴェン作品における例と複数の共通点(形式上の位置、動機音形など)を持つものがある。ここから同時代作曲家の書法がベートーヴェンの書法の変化を誘発したと推察される。
     模倣書法の変化は同時に、四重奏シリーズが作曲法へ影響したことの証左と見做し得る。というのも第一に、ベートーヴェンと共通を持つ作曲家の作品がシュパンツィヒの演奏会曲目に含まれるためである。そして第二に、奏者の座り順次第では、模倣が音高順になる際の奏者の動きが聴衆に独特な視覚的印象を与えると期待されるためである。
  • 結語:ベートーヴェンの様式変化は彼の創意のみによるものではない。寧ろ彼は同時代の書法に刺激され、それらを独自の方法で創作に生かした。また従来曖昧に語られてきた公開演奏会と創作の関連は、確かに模倣という具体的な手法のレベルに反映されていると考えられる。

 以上の成果は個人様式偏重気味だったベートーヴェン研究に対し、今後は当時の音楽、社会との関係を作曲手法に即して精査することにより、ベートーヴェン作品の意義を追及することの重要性を示唆する。